ガラス水槽の中にて

 波。
 人の波。
 空は青空。冷たい風が髪の毛をふわふわと撫でる。
 なのに目の前の海は台風が来ているのかのように荒れている。
 泳いでる人。笑ってる。
 無表情を装っている。一匹狼になろうとしている。
 皆皆皆。
 けれど笑ってる。誰かの隣で。

 少し濁っている海をじっと見つめる。底が見える。
 海、という割りには浅すぎる。
 川、という割りには広すぎる。
 ガラスでできたコレクション・ボックスがみえる。
 お人形さんを装っている。着飾っている。
 皆皆皆。
 けれど笑ってる。誰かの隣で。

 海面にうつっている、少し透けた顔と目が合う。
 その顔はとても見慣れていて、その顔だけとても見慣れていて、とても安堵した。

 「この海は危ないよ。」

 波に飲み込まれたら、またひとりぼっちになっちゃうから、そうなる前に声をかけてみる。
 その顔は無表情で答える。

 「どうして?」
 「海がとても荒れているからだよ。」
 「それはゆめだよ。」
 「だって、水しぶきが顔にかかったとき、すごく冷たかったんだよ。だからゆめじゃないよ。ゆめだったらもう目が覚めているはずだよ。」
 「じゃあ、腐っているんだね。」
 「なにが?」
 「貴方の目と、頭の中。」

 顔がゆらゆらと揺れている。その向こう側でガラスの破片が泳いでいる。

 「そんなことないよ。」
 「私は波に飲み込まれても大丈夫だよ。もうこの海が棲家だもの。でも貴方はどうかわからない。」
 「どうして?」
 「それは私が聞きたい。ねえ、貴方はこの海に住んでいるの?それとも、ただ遊びにきただけなの?」
 「…?」
 「腰まで海水に浸かっている。ここに住む気がないのなら早く陸に戻りなよ。」
 「陸に、戻れないの。だって私は「それはゆめだよ。」

 高波が私達を飲み込もうと、襲ってくる。
 その波についてきたガラスの破片が、見慣れた顔を切り裂いた。

 寂しいという気持ちを忘れて、ただただ走った。ただただ逃げた。
 私を切り刻もうとするガラスから、群れて笑っている人たちから、中途半端に浮かんでいる私を沈めようとする海から。
 波が私の足を引っ張る。
 冷たい手、だ、冷たい冷たい冷たい、痛い痛い痛い痛い痛い。
 ねえ、あのまま突っ立って、私の事も切り裂いてもらえばよかったのかな。
 だってね、結局砂に埋もれてるガラスを踏んでしまって、足から血が出ているんだよ。
 これからずっと、歩くたびに足が痛むんだ。ズキズキズキズキ。
 これからずっと、歩くたびに真っ赤な足跡が残るんだ。ペタペタペタペタ。
 だけどこの海は真っ赤に染まらない。透明な海水でガラスケースを隠して、透明な海水を通して私達は楽しいんだとその笑顔を見せびらかしてくるんだ。ずっとずっとずっとずっと。

 不快な感覚に頭が支配されていく。その片隅で、さっき話したあの顔に、嘆く。
 「それはゆめだよ。」
 波を蹴り飛ばす音に混じって、そんな声が聞こえた気がした。

 浜。
 砂浜。
 感覚の無い足が飲み込まれて、そのまま寝転んだ。
 冷たい感触が頬に突き刺さる。目の前にはガラスの破片が、いっぱい。遠くで波の音が聴こえる。
 破片だらけで乾燥しているここには誰もいない。誰も来ない。
 私の足跡はあの海に飲み込まれて、栄養にも汚物にもならず、本当の意味で“消化”されてしまうんだろう。
 [夜にここに来て、月の浮かぶ海を眺めてみたい。]
 それはもう、過去の話。
 そのうち私の足元に小さな血の湖ができて、その中にまでガラスの破片が入り込んで、波と一緒にまた私を襲ってくるかもしれない。
 傷だらけの足ではどこへも逃げられない。どこへも行けない。
 傷口が化膿し、腐り、全身が乾涸びてミイラになるのを待つしかないだろう。体中に突き刺さった、ガラスと共に。

 這いつくばって、私は生まれた場所へ戻る。
 顔から、溶けかけてどろどろになっている球体を落として。
 頭から、溶けかけてつるつるになっている球体を落として。
 腐った海水の入った、井戸の中へ。