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金木犀と綿が舞うような
「ねえ、キンモクセイって何?」
テレビから聞こえてきたのは、キンモクセイ、というはじめて耳にする単語。形も香りもなく、音楽のように心地よく響く単語だった。
「木星と金星がぶつかってくっついたんだよ。それでその星のことをキンモクセイって呼ぶことになったって、知らないの? テレビじゃこの話題で持ちきりなのに。」
受話器からきこえる、ため息のような吐息。煙草の煙を吐いているんだろう。彼はヘビースモーカーだ。
「え、でも、いい香りがするって言ってたけれど……」
「……金木犀って、木だよ。植物。丁度今くらいの時期になると、オレンジ色の花を咲かせて、すっごくいい匂いがするんだよ。そっちには無いの?金木犀。」
「うーん……どうだろう。ちょっと待って、調べてみる。」
携帯電話を耳に当てたまま、本が何処かの国の軍隊のように並べられている棚の前へ移動する。そこから埃まみれの植物図鑑を取り出し、キンモクセイの項目を探す。
その項目に掲載されている写真は、小さくて可愛らしい、橙色の花が咲いている木だった。白いワンピースを着た、幼い女の子の髪飾りに似合いそうな花。
彼の言っていたことは本当なんだと思いながら、生息地を確認する。
「……うーん……寒いところにはない、って……。」
「お前の住んでる場所って、あの黒くて気持ち悪いカサカサ動く奴が少ない代わりにそういうのが無いのな。」
また聞こえてくる吐息。笑い声を煙草の白い煙に変える、短い吐息。
「そいつの代わりには雪虫がいるんだよ!」
まただ。また、子供のような憎まれ口をたたいてしまった。
僕はこのように幼稚な心を持っている。それは胸の中のあちこちへと転がり、ある時には蝶が舞うようにふわふわと飛んでいき、ある時には飛行中に銃に撃たれた鳥のように、地面へと真っ逆さまに落ちていく。自分でさえも、それを手のひらで操ることができなかった。それに比べて彼の心は、低重心で、ころころと何処かへ転がったり、見失うほど空高く飛んでいったり、底の無い闇へ吸い込まれる事は無く、いつも同じ場所で、ひっそりと存在しているようだった。彼は自分を韜晦しているようだから、それはただの僕の想像だけれど、僕は、そんな彼と話すといつも少し恥ずかしくなるし、そんな自分に辟易する。
「まあ、雪虫は図鑑でもみれば大きさも色も大体わかるけれど、金木犀の香りはいくら調べても図鑑を見ても、物知り爺さんに聞いてもわかんないな。残念だねー、可愛そうなぼくちゃん!」
ケタケタと笑う声が聞こえる。その声の主が手に持ってるであろう、短くなっている煙草の火が、指に触れてしまえばいいのにと少し思う。
「そのうち雪虫箱いっぱい詰めて送るから楽しみにしててね。」
僕はそれだけ言って電話を切り、会話を強制終了し、黒い携帯電話を白いベッドに放り投げた。
雪虫を見かける時期までこの関係が続くのかな、と考えながら。
その電話から数ヶ月が経った。灰色な地面も灰色の壁も雪で真っ白に染められていて、夜でも少し眩しい冬の季節になっていた。
昼ほどではないにしろ、夜の雪は街灯の灯りを反射し、ギラギラと僕を睨みつけているようだった。あまりの眩しさに黒目は白く塗りつぶされそうで、僕は飲み込まれそうなくらい黒い夜空を見上げ、白く染まっていく瞳を塗りつぶそうとした。
いつも遠くにあって、手の届かない星。それが、雪の鋭い眼光に蹴飛ばされ、更に遠くへ転がっていた。
相変わらず僕を睨んでいる雪。その視線から目を背け、まぶたを少し伏せる。白い色を視界からできるだけ排除するように。
そうして僕は、冷たい雪の街から自分の家の入り口へと戻った。
玄関の鍵を開け、中に入る。扉を閉めると、郵便受けからカラン、と乾いた音がした。どうせまた訳のわからない類の店の広告が入っているのだろうと、いつもなら気にも留めないのに、手は勝手に郵便受けを開けていた。
白い封筒に入った手紙が1通、寂しげに入っている。
僕の苦手な白。
雪のような白。
眩しい色。
冷たい色。
手に取ると、温度まで雪と同じだった。
誰かに雪球を背中へ投げつけられたような不愉快さを感じながら、差出人の名前を見る。
あの電話を最後に連絡を取っていない、彼の名前がそこにあった。
肌寒い僕の部屋。雪が降ったように白い壁。冷たい手紙。
封を開けると、便箋2枚と、すけた紙に挟まれた、何時か何処かでみたことのある、乾燥している橙色の花びらが入っていた。それらを取り出し、花びらを机の上に置き、手紙を読むことにした。
それは便箋とは言い難い、ただのルーズリーフの切れ端だけれど、彼がきちんとした便箋─例えば花柄の便箋だとか─に手紙を書く姿は、想像できなかった。それが無地の便箋だとしても、彼のイメージに合わない。ルーズリーフの切れ端が一番似合う。そもそも、彼が手紙を書くなんて考えられないけれど、実際、彼からの手紙はこの手の中にある。
二つ折りにされたそれを開くと、文字は、ルーズリーフの切れ端ではなく、花柄の便箋の中に並んでいた。僕は驚いて、しばらくそれを凝視する。花の中から浮かび上がる達筆な形をした言葉たち。文字は書いている人の性格を表すというのは迷信なのかもしれない。
しかし、その文字は、彼の母が書いたものだった。
僕はそれを、時間をかけて読んだ。一文字一文字を、穴が空きそうなくらいみつめ、それらが頭の中でゲシュタルト崩壊すると、その文字本来の形を、意味を、元の状態に戻すために、また読み直した。数え切れないくらい回数をかけて。
それなのに、それなのに。
彼が自殺したという内容が、事実が、うまく頭に入らない。
彼の声の輪郭が、ぼやけて、蒸気のように消えていく。
彼の顔の輪郭が、ぼやけて、蒸気のように消えていく。
彼の死の輪郭が、ぼやけて、蒸気のように消えていく。
手の届かぬ天井のあたりの、空気の中へ。
そしてとうとう、手紙の文字までぼやけてしまっていた。
彼の母からの手紙を、机の上に置く。
手に残ったのは、シャープペンシルで書かれた文字が並ぶ、少し煙草の匂いがするルーズリーフの切れ端。
雪虫の箱詰めが送られてくるそうだから、こっちは金木犀の花を送ることにした。
箱詰めにしたかったけれど、近所の家の庭の木からとってきたんだ。これで我慢してくれ。
僕は彼からの手紙に、一緒に入っていた金木犀の花をはさんで、封筒に戻した。
ドライフラワーとなった金木犀の花びらが、涙で濡れないように。
彼が金木犀の花に閉じ込めた、香りが、美しさが、時間が、溶けて何処かへと流れていかないように。
乾燥した金木犀も、手紙も、封筒も、煙草の匂いがする。
まるで君が此処にいるみたいだ。
それから数年がたった、冬が近づいているある秋の日。あの手紙が届いてから、もう何年も経ってしまっていた。
僕は夕暮れ時の、彼の住んでいた街にいた。
右手には乾いた金木犀の花びら。左手には彼が吸っていた銘柄と同じ煙草。目の前には大きな金木犀の木。
煙草を吸い始めて結構経つのに、未だに彼のように上手に吸えない。吸うのに上手も下手もあるのか疑問だけれど、今でもよくむせてしまう。僕は心だけではなく身体も子供っぽいらしい。
指に近づく煙草の火。最後に電話をしたときの事を思い出す。
彼はきっと大人だから、こんなに煙草が短くなる前に灰皿に入れ、新しい煙草に火をつけ、それを吸っていたのだろう。そう考える事ができるようになった今、あのときよりは少し大人になったかもしれない。
「でも、君の前にいたら、いくら大人になっても僕は僕ちゃんのままだね。」
金木犀の木に話しかける。風が吹いて花びらが舞ったら、君が話してるような気分になって面白いのに、なんて思ったけれど風なんて吹かなかった。そこがまた彼らしいなと思って、そんな僕が少し気持ち悪い。安いセンチメンタルなんていらないのに。高くてもいらないのに。
右手を、左手に近づける。
煙草の火に触れて、乾いた金木犀の花びらは燃える。僕はしゃがみ、それを土の上に置いて、眺める。
金木犀の木の根元近くで、燃えていく煙草と、花びら。
焦げる香り。煙草の香り。
彼は煙草のような人だった、と思う。静かに赤く燃え、緩慢なようにみせかけて、実は他の誰よりも早く灰となり、燃え尽きた。赤も、灰も、真っ白い煙で隠して。こっそりと、独りで。
けれど煙は、僕の肺へと入り込んでいて、灰になりつつある姿を、僕にみせていた。
そしてその煙は僕の体内に溶け込み、血と一緒に流れている。現在も、きっと、これからも。
焦げた香り。煙草の香り。
君が花びらに閉じ込めた香りも、美しさも、時間も、想いも、
白い煙になって、空へ飛んでいく。
遠くへいってしまった君を、追いかけるように。
薄暗い、金木犀の木の下で、花びらも煙草も燃え尽き、もう土と見分けがつかなくなっていた。もしかしたら跡形も無く彼の元へ飛んでいったのかもしれない。
僕は立ち上がり、空になった煙草の箱を、近くにあったゴミ箱へ投げ捨てた。
風が吹いて、金木犀の花が揺れたけれど、僕にはその花の香りがわからなくて、夕暮れの空を静かに舞う白い綿と、橙色した金木犀の花びらをみては、煙草の香りに君を思い出すことしかできなかった。
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